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「逆説の日本史~3人の龍馬と徳川幕府滅亡の謎~」

「逆説の日本史~3人の龍馬と徳川幕府滅亡の謎~」

 

Ryoma

 

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「釣りバカ日誌」以来土曜日の夜の定番となったBSジャパンのやっぱり土曜は寅さん!『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』高嶺の花!美しい母娘登場を見た後、チャンネルを変えることなく、「逆説の日本史~3人の龍馬と徳川幕府滅亡の謎~」をつい最後まで見てしまいました。

 

井沢元彦には賛否両論あるようで、歴史の真実はわかりませんが、エンターテインメントとしては十分楽しめました。

 

明治維新のヒーローといえば「坂本龍馬」。
「坂本龍馬」=日本を変えようという志を持った男。
しかし、教科書では触れられていないが、幕府の中にも近代国家への道筋を描いた『龍馬』がいたのだという。


今回は3人の人物にスポットを当て、歴史作家・井沢元彦らが長崎・佐賀・横須賀・高崎・日光を訪ね、彼らの活躍となぜ歴史から葬られたのか、その謎を紐解いていく。
なぜ徳川幕府は滅んだのか…?

 

今回のテーマは「徳川幕府滅亡の真実」。
徳川幕府が崩壊し、新政府が打ち立てられた日本の革命、“明治維新”。
幕末、動乱の日本で脚光を浴びる勤王の志士たちの中でも、歴史に燦然と輝く男の名は「坂本龍馬」。
武田鉄矢をはじめ圧倒的に多い「竜馬ファン」
討幕の要となった薩長連合に奔走し、近代国家の礎を築いた幕末のヒーローである。

 

しかし、『逆説の日本史』など数々のベストセラーで教科書に異を唱えてきた歴史家・井沢元彦は言う。
「幕府崩壊と近代国家の夜明けは、本当に勤王の志士たちの活躍だけで実現したのか?
実は、幕府の中にも、近代国家への道筋を描いた“龍馬”が何人もいたのだ」と。
果たして、彼の言う“知られざる幕府の龍馬”とは一体誰なのか?

 

幕府が活用すべきであった“3人の龍馬”…。
もしも徳川幕府がこの3人を重用していたら、幕府は滅亡することなく生まれ変わっていたかもしれない。

 

小栗上野介と田沼意次は、これまでの日本史勉強で、現在通説とされているものは勝者がつくった歴史であり、ほとんどが一方的な人物評だとなんとなく知っていたのですが、 鍋島閑叟という人物の偉業はほとんどが初めて知りました。

鍋島閑叟は、肥前佐賀藩(今の佐賀県+長崎県を治めていた)の藩主で、当時いち早く日本の近代化に着手した先進的な人です。
最新鋭の武器を国産(当時で言えば藩産)しており、この人物が薩長につくか幕府につくかで勝敗は決するほど時代に影響のある人物でした。
「薩長土肥」と言われるように、最終的には官軍となった薩長側についたため、時代はそちらに流れていったのです。

 

■西洋式軍艦の製造のため、横須賀に造船所を建設し東洋一の艦隊を作り上げた幕臣、徳川譜代の旗本・小栗上野介。


徳川埋蔵金を赤城山に埋めた人物としては有名であるが、その功績は一部のコアな歴史ファンにしか知られていない。

 

学問ばかりではなく、剣術、柔術、砲術、馬術、弓術などを修得し、まさに文武両道に秀でた、小栗忠順は、当時アジア最大規模の造船所となる横須賀造船所の建設や、日本最初のフランス語学校の設立、フランス式陸軍制度の導入、日本最初の株式会社組織「兵庫商社」の設立など、日本の近代化の礎(いしずえ)となるあまたの偉業を残している。


軍艦奉行、勘定奉行、外国奉行など要職を歴任し8年間幕政をささえ、日本の近代化を押し進めた。

 

慶応4年に始まった戊辰戦争では、第15代将軍徳川慶喜に徹底抗戦を主張。
「箱根で新政府軍を陸軍で迎撃しつつ、幕府海軍の戦艦からの艦砲射撃で足止めし殲滅する」という案を出しますが、却下されてしまいます。


同年御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡されると、「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出した。

理由も良く分からないまま数か月後には捕えられ、新政府軍に斬首され、その激動の一生を終えました。


「小栗上野介は謀殺される運命にあった。
なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」とも言われている。

 

のちに殖産興業政策を展開して日本資本主義の基盤形成に寄与した大隈重信は、「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」と語っている。

 

 

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■幕末の変革に向かい、ヨーロッパの列強に負けないくらいの日本最強の軍隊を有していた佐賀藩藩主・鍋島閑叟。


佐賀藩と言えば『葉隠』で有名である。
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめたものである。
葉隠の記述の中で特に有名な一節は「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言である。

 

17歳で第10代藩主の座に就くが当時の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主・斉直の奢侈や、2年前のシーボルト台風の甚大な被害もあって、その財政は破綻状況にあった。

 

鍋島閑叟は役人を5分の1に削減するなどで歳出を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、磁器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。

 

また藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料の支払免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。
役人削減とともに藩政機構を改革し、出自に関わらず有能な家臣たちを積極的に政務の中枢へ登用した。

 

さらに長崎警備の強化を掲げるも、幕府が財政難で支援を得られなかったことから、独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置し、反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置し、蒸気機関・蒸気船(凌風丸)までも完成させることにつながっている(それらの技術は母方の従兄弟にあたる島津斉彬にも提供されている)

 

他藩が近代化と財政難の板挟みで苦しむ中、財政再建と軍備の近代化に成功したが、盟友であった大老の井伊直弼が桜田門外の変で横死した後の、激動の中央政界では佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置いたため、「肥前の妖怪」と警戒され、参預会議や小御所会議などでの発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるものの実らず、政治力・軍事力ともに発揮できなかったものの藩内における犠牲者を出さずに済んだ。

 

鳥羽・伏見の戦いの時に上京中で藩主も家老も京都に不在だったため、薩摩藩からは佐賀征伐を主張する声が挙がったが、薩長(薩摩藩・長州藩)側が勝利に終わって以降は上京した佐賀藩も新政府軍に加わり、戊辰戦争における上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀藩の活躍は大きかった。


明治政府が近代化を推し進める上で、直正が育てた人材の活躍は大きく、直正自身も議定に就任する。
これらにより、討幕運動には不熱心であった佐賀藩であったが、薩長土肥の一角を担う事となった。

 

 

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■龍馬が登場する100年も前に、幕府を救う最も有効な財政再建策を試みた男、徳川幕府の老中・田沼意次。

 

田沼 意次は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。

この頃より老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。


悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。

内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手する等の政策を実施した。

 

その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。

しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、
そのために贈収賄が横行した。

 

外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、さらには北方においてロシア帝国との貿易も行おうとしていたほか、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、天明4年に息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺されたことを契機とし、権勢が衰え始める。

 

後の松平定信の寛政の改革と比べて下記のように詠まれている。

 

田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水
白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき

 

徳川家康は、建幕の時、徳川の世を安泰にするために「朱子学」を奨励しました。
朱子学とは、儒教の流れを汲む「忠孝」を重んじる学問です。
「忠」とは主君に対する忠義で、「孝」とは親に対する孝行のこと。


家康は、朱子学の教えを武士階級に浸透させることによって「忠」を植えつけ、主君である徳川家に反乱を起こさないようにしようと考えました。
その他にも家康(や秀忠)は、武士階級が反乱を起こせないように様々な政策を実施しています。
その主たるものが、藩主の正室が江戸に住んで2年ごとに上洛させる参勤交代でした。


朱子学を奨励した家康の目論見はもののみごとにハマります。
徳川安泰の世が築かれたのです。

なぜ朱子学によって主君に仇なすことが不忠だと教え込まれたのに、250年も安泰だった幕府が倒れることになったのか?
井沢氏によると、それも朱子学によるのです。

朱子学が示す主君には「覇者」と「王者」の2種類があり、「覇者」とは「力(武力)」によって世を治めた(治めている)者で「王者」とは「徳」によって治めている者です。


幕末、薩長土肥の武士たちは、そもそも家康は「覇者」じゃないか!と気づきました。
後年、「タヌキ親父」と言われるように、策略によって権力を手にした奴じゃないかと。


そして、日本の本当の「王者」は天皇家であると思い至るようになったのです。
そしてどんどん勤皇に傾いていきました。

 

鳥羽伏見の戦いでは、薩長の政略が功を奏して錦の御旗を掲げることができました。
王者の下につく「官軍」となれたのです。
朱子学が、「王者」を立てて「覇者」を滅するという大義名分を与えることになったのです。


この時はまだ、幕府にも相当の武力が残されていました。
小栗上野介が優れた戦術も進言しており、幕府が負けることはまずなかったという。
しかし、時の将軍 徳川慶喜が小栗を罷免します。
そうなった理由の源がまた、家康にあるのです。

家康は「尾張」「紀伊」「水戸」という徳川御三家をつくりました。
御三家は本家である「将軍家」に跡継ぎの将軍がいない場合に将軍を出すという役目を持っています。
慶喜は「紀伊」から将軍となりましたが、ココに落とし穴があったといいます。

慶喜は紀伊に養子で入っており、元々は「水戸」の出身です。
水戸徳川家は御三家のうち特別な家柄を持っており、そう示したのが家康自身なのです。
「特別な家柄」とは、将来世が乱れた時(幕末のように朝廷側と幕府側に分かれた場合)に、御三家すべてが幕府寄りだと、
もしものときに徳川家が滅びてしまうため、水戸家だけは朝廷につくようにと言いつけたのです。

さらに、水戸徳川家の中で奨励されていた「水戸学」が幕末の事態に加速をつけます。
水戸学は朱子学の流れを汲むもので「忠孝思想」です。
すなわち、水戸徳川家も徳川は「覇者」であって「王者」ではないと気づいていたのです。

 

慶喜は水戸学の流れを汲んでいるのです。
彼は勤皇思想だったゆえに、自ら進んで謹慎し、江戸の無血開城も行いました(実行は勝海舟)。
通説では、鳥羽伏見の戦いで慶喜が逃げ出したとなっていますが、それは勝者側の言い伝えあって、その時の大阪城明け渡しも無血開城だと言えると番組は言っていました。

小栗上野介と田沼 意次は明らかに幕府の要職についていた人物ですが、鍋島閑叟は薩長土肥で新政府側についた人物です。

井沢元彦は鍋島閑叟が要求した京都守護職についていれば、幕府側に味方したというのでしょうか?

聞き洩らしたのかもわかりませんが、番組ではその辺がはつきりとしなかったようだ。

 

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