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あの東芝が昭和14年発行の「マツダ新報」から戦前のラジオを学ぶ

あの東芝が昭和14年発行の「マツダ新報」から戦前のラジオを学ぶ

 

A Fada cathedral 1932

 

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ラジオ放送の始まり

 

世界初のラジオ放送は1906年12月24日アメリカ・マサチューセッツ州から個人の無線局から、自らのクリスマスの挨拶をラジオ放送した。

商業放送は1920年アメリカで初めてのラジオ放送が始まり。

 

ちなみに超遠距離を伝送できる短波ラジオ放送を最初に行ったのはオランダの国営放送で、1927年11月から海外植民地向けに試験放送を開始、翌1928年には当時オランダ領だったインドネシア・ジャワ島での受信に成功する。
これに続いてドイツ、ソ連、フランス、イタリア、イギリス等が1929年 - 1932年にかけて植民地向け放送や海外宣伝放送を短波で開始している。

 

日本初のラジオ放送は、1925年(大正14年)3月22日で社団法人東京放送局(JOAK:現在のNHK東京ラジオ第1放送)が東京・芝浦の東京高等工芸学校内に設けた仮送信所から発せられた。
波長は375m(周波数800kHz)、空中線電力(出力)約220Wだった。
当時の受信機はあまり性能が良くないため、東京市内でないとよく聴こえなかった。

 

民間放送は1951年には9月1日中部日本放送(現・CBCラジオ)、新日本放送(現・毎日放送〔MBS〕)が、同年12月25日にはラジオ東京(現・TBSラジオ)と、民間放送も相次いで開始された。

 

鉱石ラジオから始まった

 

1917(大正6)年に東芝は、日本で最初の三極真空管(オージオンバルブ)を完成しておりますが、放送が始まった頃のラジオの多くは、鉱石ラジオであった。
これは、電源を必要としないが、レシーバで聞くことしかできなかった。


鉱石ラジオは私も小学生の頃に、スパイダーコイル(蜘蛛の巣)と鉱石検波器で作り、マグネチックレシーバーで聞いておりましたが、地方ということもあってNHKが微かに聞こえる程度でした。
私の小学生の頃には鉱石検波器もマグネチックレシーバーも改良されて、性能は当時と比べると向上しておりましたがそれでも微かに聞こえる程度でした。

 

真空管式ラジオ

 

鉱石ラジオは一人しか聞くことができませんが、真空管式のラジオは、スピーカを鳴らすことができ大勢で聞く事ができますが、とても高価で、庶民が手に入る物ではありませんでした。
また、真空管式ラジオの電源は電池であった為消費電力の大きな真空管を動かすのには大型の蓄電池が必要で保守管理に手間がかかり、費用も高かった。

 

外国メーカのライセンスで大企業が日本製ラジオの生産を開始したが、当初は形式証明制度という規制によって国産品は低性能かつ高価なものとなり、市場はアマチュアの手作り品と輸入品に席巻されておりました。

 

国産初のスーパーヘテロダインラジオは 1924年(大正13年)の ジュノラ 6A型 6球スーパーヘテロダイン受信機でRCAのライセンスを受け、スーパー7をお手本に製作。

 

 

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戦前のラジオ

 

戦前の普及型ラジオは並四で、再生検波+三極管による低周波2段という構成のセットです。これに電源整流用の真空管が付いて、真空管は4個となる。
感度はそれほどでもないが、簡単で安価であった。
このタイプの4球受信機は、業界の俗語で「並四」と呼ばれた。


この他に、低周波増幅段を5極管(ペントード)1段として3球とした「三ペン」と呼ばれるセットもあったが、真空管のコストが高く、一般的ではなかった。
もう少し高級で高感度なセットとしては高周波1段増幅が付いた「高一」4球受信機が比較的数多く販売された。

 

トランスレスラジオ

 

先日手に入った1939年昭和14年発行のマツダ新報に、12Y-R,12Z-P1,12X-K1,24Z-K2を使用した、並3、並4の記事がありました。

「興亜大建設のため大陸に矛を進めてから茲に二ケ年有餘(中略)

銅、鐡の如き軍需資材は極力之が節約をはからなければならない」
とあり銅、鐡を使用するトランス類の製作が、抑制されたようです。

 

真空管 トランスレスラジオ 回路図

 

東芝が開発したトランスレス用真空管を使用した高一再生式受信機。

12YV1-12YR1-12ZP1-24ZK2-B37の構成で、紙フレームのマグネチックを駆動する。
回路、構造とも直後に発売された放送局型123号受信機に近く、これが原型といえる。
スピーカは8"程度のマグネチックで初期には金属フレームが使われているが、
1940年(昭和15年)頃からは代用品の硬化紙製の物になる。

 

電球、真空管のトップメーカであった東芝だが本格的なラジオセットの販売は行っていなかった。
このセットは一般に市販されたが、東芝自身が製造したものではなく、OEM供給によるものである。
製造は早川金属工業(株)(シャープ)が行い、東京芝浦電気(株)マツダ支社が販売した。

 

早川金属工業(株)は1915年 (大正4年)シャープ・ペンシルを発明。
1925年(大正14年 )には 鉱石ラジオをシャープの名前で発売。
シャープの戦前の主力商品となる。

 

国策型受信機

 

日中戦争の激化に伴い、資材統制が厳しくなった。
このため、ラジオの回路やデザインが見直され、よりシンプルなものに変わっていった。
時局に対応して簡素化されたセットには、「国策」「勝利」「戦勝」など、それらしい名前が付けられたが、
「国策○号」を名乗るものが多かった。
これら国策型受信機の回路は並四の回路をトランス結合から抵抗結合としたもので感度を稼ぐために
新型管UZ-57を検波に使用したものが多い。

 

放送局型受信機

 

局型受信機の案は1936(昭和11)年から検討が始まった。
放送局型受信機は自由に設計されたセットを放送協会が認定する認定受信機と異なり、
放送協会でデザイン、回路から販売価格まで指定して同じ物を製造し、価格は3ペン受信機相当の機種で20円とされ(同等の認定品は当時30円前後)、月賦で直販しようというものだった。
ドイツの国民受信機の制度と酷似している。

 

ドイツの国民受信機は回路は、ストレート式で、これは山間部が少なく、多くの外国と隣接するドイツにおいて、自国の放送を確実に受信し、外国の放送を受信できないようにすることが重要だったからである。


資材節約という当時の国策に沿った普及型受信機を「国策型受信機」と称した。
1937年9月9日に放送協会から逓信省に対して放送局型受信機規定の認可申請がされている。
すでにこの時点で後の放送局型1号、3号となる受信機の試作は進められていた。
ドイツと異なり山間部の多い日本では3球受信機だけというわけに行かず、
高周波付きの4球受信機が追加された。

 

 

 

 

 

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