懐古オヤジのボヤキ録

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清水富美加が騒がれているが私の長年の謎「豊川稲荷」について

清水富美加が騒がれているが私の長年の謎「豊川稲荷」について

 

豊川稲荷

 

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女優の清水富美加が芸能界を引退し宗教団体「幸福の科学」で出家するようで連日テレビを賑わせている。

芸能界に疎い私は清水富美加と言われても正直ピンとこない。

すでにコスモ石油もCMの画像を削除したようでネットで眺めている。

 

宗教との関係について評論家、弁護士、レポーター等が述べているが、宗教に関して地元でありながら長年疑問であった豊川稲荷について調べてみました。

実は女房の実家は豊川稲荷、妙厳寺の信徒であり、義父と義母の葬儀もここで行いました。

その後も法要等でも何度か行っておりますがイマイチよく解っておりません。

曹洞宗のお寺である事はわかるのですが、「豊川稲荷」の事がよくわかりません。

「豊川稲荷」が神社ではない事がよく理解できておりません。


「豊川稲荷」は「円福山 豊川閣 妙厳寺」と称する曹洞宗寺院である。
境内に祀られる鎮守の稲荷(咤枳尼真天)が有名なため、一般には「豊川稲荷」の名で広く知られているようだ。
咤枳尼真天は、インドの古代民間信仰に由来する仏教の女神であるが、日本では稲荷信仰と習合し、稲荷神と同一視されるに至った。
豊川咤枳尼真天の姿は、白狐の背に乗り、稲束をかついで宝珠を持ち、岩の上を飛ぶ天女の形である。


「豊川稲荷」は神社ではないものの、商売繁盛の神として知られており、境内の参道には鳥居が立っている。

また日本三大稲荷の1つとされる。
三大稲荷の選定には諸説あり一定していないが豊川稲荷では他の2箇所を伏見稲荷大社、祐徳稲荷神社としている。

 

のぼり

 


「豊川稲荷」は北海道・東京都・神奈川県・大阪府・福岡県に、別院を持つほか、修行道場として僧堂を設置している。

また駅伝で有名な豊川高等学校を運営しております。

 

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鎌倉時代の禅僧・寒巌義尹が入宋し、文永4年(1267年)、日本へ船で帰国の途上、咤枳尼真天の加護を受けたのがきっかけとなり、この天を護法神として尊崇するようになったとされる。
寒巌義尹は鎌倉時代中期の曹洞宗の禅僧で寒巌派(法皇派)の派祖。
父は後鳥羽天皇とも順徳天皇とも言われ、法皇長老と呼ばれた。

嘉吉元年(1441年)曹洞宗法王派(寒巌派)の寒巌の6代目の法孫にあたる東海義易にによって創建。


当時は、豊川(河川名)の近くに広がる円福ヶ丘という高台に伽藍があったが、元禄年間までに現在地に移転した。

室町時代末期、今川義元が伽藍を整備し、戦国時代になると、三河領主の今川義元、徳川家康から外護を受け、江戸時代になると、大岡忠相や渡辺崋山からの信仰を受け、立身出世や盗難避けの神として江戸の庶民からも信仰されるようになり、文政11年(1828年)には、大岡邸の一角を借りて江戸参詣所(後の東京別院)が創建された。

大岡越前守は晩年に1万石を拝領し三河・西大平藩の藩主となり、豊川は西大平藩の領地となった。

 

明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した。
妙厳寺にも神仏区別の厳しい取り調べが及ぶが、翌年には稲荷堂をそのまま寺院鎮守として祀ることが認められる。
しかし、それまで境内の参道に立ち並んでいた鳥居は撤去され、「豊川稲荷」「豊川大明神」の呼称も使われなくなった。
以降は「豊川咤枳尼真天」と号するようになる(ただし、間もなく通称として「豊川稲荷」と呼ぶことは復活する、現在の鳥居が立ったのは戦後である)。

この取り調べの際に、新政府と妙厳寺の間に入ったのも西大平藩である

 

少しだけ「豊川稲荷」の事が解ったような気がします。

今は冬季で開かれておりませんが、3月からは豊川稲荷表参道を中心として定期的に行われている「いなり楽市」もはじまりますのでウォーキングがてら境内も覗いてみたいと思います。

 

 

 

 

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